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2006年11月26日 (日)

老婆餅(日本語だと女房ケーキ)

 私は地下鉄で通勤するときに、駅の近くにある台湾系の「好利来」というケーキ&パン店をよく利用する。たいしておいしくは無いんだが、持ち前のぶらぶら気質で、店を覗くのが好きで、ついでに買っちゃうということだ。まあけちなようでいて、実は無駄遣いが多いと言うことだ。(笑)

 そこでよく安売りされているのが、「老婆餅」で、箱にその由来が書いてある。何でも昔、ある男が事業に失敗して全てを失い、女房を売り払って餅売りを始めた。餅がおいしくて繁盛して、とうとう数年後に奴隷になっていた女房を買い戻し、幸せに暮らしたというもの。聞くところによると、賭博で金を失ったバージョンや、女房が遊郭に売られていたバージョンもあるらしい。まあいずれにしても女房を売るくらいだから賭博に近い投機的なビジネスをやっていたのだろうし、奴隷も遊郭も同じようなものに違いない。この話をどう読むか、だ。

 昔あるブログを読んでいたら、この話が出ていて、「老婆餅売りはバイタリティーがあって素晴らしいし、女房を思いつつけ取り戻しているからいい」とあって、私はそうかよと思ったのを記憶している。

 まあ旧時代の話なのでまともに考える意味はないのだが、暇つぶしに考えてみると、まあまずは餅売りは禄な男ではないということだ。そもそも失敗するような事業をする男は禄でもない。賭博で財産を失ったバージョンがあるように、賭博に近いビジネスで財産を失ったと予想されるし、そういうビジネスにほいほい飛びつく男は、危機管理意識がないので私はいいとは思えない。餅売りが餅で成功したように、地道にやるのがいいんじゃないかと思う。地道にやれば、女房を売る羽目になるような失敗はしないはずだ。

 また「女房はモノかよ。」ということだ。事業の失敗についても男が自分で責任を負うならそれはそれでいいが、失敗の責任を女房に押し付けているのが気に食わない。まあ旧時代だから、女房は男の持ち物であり、女房を売ると言うことが責任を取るという意味だったのだろうけどね。女房はパートナーであって、モノじゃないと私は思うし、普通女房を苦しめるような失敗はして欲しくないものだ。そのへん、男の誠意を感じないから嫌だ。それからこの部分は同情できないでもないが、「老婆餅」という名前が残っているくらいだから、女房を買い戻すとか言いながら餅売りをしていた可能性があり、そーゆー同情買い的な部分が嫌だ。そもそも餅売り男が賭博或いは賭博的事業に失敗するのが悪いんじゃないか! 因果応報なのにね。

 結論からすると女房は買い戻され、幸せに暮らしたということになっているが、私は「本当に幸せなのかよ」と思ったりする。女房をもののようにしか思っていない男と暮らしたって碌なことはないだろう。まあ遊郭よりはいいかも知れないが、もしかするともっとまっとうな男に請出されたかも知れないし(まあ数年後に請出されていないのだから、碌な女ではなかったのかも知れないが)、奴隷をしていたにしても、どうせ男に買い戻されても男の奴隷(モノや財産としてしか考えられていない)なんだから、貧乏な男の奴隷よりも金持ちの奴隷の方がまだましかも知れない。

 「老婆餅」のエピソードは、美談らしいが、本当に美談なのかよと思ったりもするわけだ。まあ要するに私が暇人であるということで、暇人のつぶやきにお付き合い頂いたことに感謝する。

注*中国語の「老婆」とは、日本語のニュアンスで「女房」。

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