「かわいそう」という言葉が大嫌いである
昨日脱北者について記述するブログを読んだら、その書き込みに「脱北者はかわいそうですね。国連が何とかしてくれないんでしょうか。でも日本に難民受け入れは難しいでしょうね。」というコメントがあった。私はこういう発言が嫌いである。
まず「国連が何とかしろ!」というコメント。日本だって国連の一員なんだから、国連が何とかしろということは、日本も何とかしなければならないという意味である。それを認識しているのであろうか? 難民を大量に受け入れる覚悟があるんだろうか? あたかも他人事のようにいえるところが凄いと思う。
自分で引き受ける気がさらさらないのに、「かわいそう」といい、「かわいそう」と言えばきっとどこかの誰か(例えば国連)が、目の前の「かわいそう」を処理し、自分を快適にしてくれると考える、その考え方も私は気に食わない。そんな我侭が通用するような、甘い世界なんて!
自分で発言する以上は、その発言に責任を持つ必要がある。だから「かわいそう、なんとかならないのか?」と言った以上、「じゃあ、あんたは何ができるのか?」と突込みが入るのが、大人の社会だと思うのだ。いまどき、北朝鮮の難民を受け入れたい国がどれほどあると言うのであろう? 日本で受け入れられるというのだろうか?
日本が難民を受け入れることは、日本にとって出費こそあれ、あまり得になることではないと思われる。実際に受け入れるとなると反対が起きるだろう。「脱北者かわいそう」と言っていた、その舌の根が乾かぬうちに。
だから、自分で何もできないんだったら、何も言わずに黙っていた方がいいと思うのだ。指摘して、議題に上れば、自分にお鉢が回ってくるのである。日本政府は世論で動くところがある。だからこそ、自分達にお鉢が回ってこないで欲しいと思うのならば、何も言うべきではないと思うのだ。
それに「かわいそう」な事なんて、世界のどこでも発生しているのである。きりがない。海外に住むと分かることだが、人間は平等なんかじゃないのである。まあ死が誰にでも訪れるということだけは平等だけど。
まあ、それにしても北朝鮮があまりいい状態でないのは事実である。だから下手に「かわいそう」というよりも、北朝鮮が難民を出さなくても済むようにもっていくのが、北朝鮮の人たちにとっても、我々にとっても賢いやり方だと思うわけで、それゆえ経済制裁をしない方がいいように思えるし、あさりを買ってあげることもいいことのように私は思う。まあ、あくまで私見ですけど。
私は「かわいそう」という感情論で物事を進めていくのが、嫌いである。問題があるならば、それは解決していかなければならないし、状況を冷静に判断してこそ、最良の路が開けると考えているからである。感情に流されていては、満足はできるかもしれないが、抜本的な解決はできないような気がしてしまうんである。
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