« 中国人スタッフにどう接するか | トップページ | 北朝鮮 »

2006年7月14日 (金)

コメントについて

吾連載についてコメント欄がついてから大分経つが、私の文章が平易であるため、いろいろな人が書き込んでくれ、事実上2チャンネル状態になっているんじゃないかと思うことすらある。

コメントを読んで「ふーん」と面白く思うのは、私が主題として書いたところでないところが気になる人が結構いることと、コメントの記述でその人がどういう視点に立っているのかが分かるということである。

私としては中国滞在が長くなっているので、もはや「善悪」とか「正しい正しくない」という尺度でモノを語れなくなっている。だから「善悪」とか「正しい正しくない」という捉え方のコメントを見かけると、その内容よりも、そういうコメントを書けることがうらやましく思える。

また現地にいる人間の一人として私もそれなりに苦労しているわけで、文章には苦労や葛藤を主観的に書かないようにはしているが、それは同じ苦労をしている人間であれば行間に読むことが出来るように書いてある(と思う)。それが読めていないなあと思われるコメントを見たりすると、ある意味、読めないことをうらやましく思ったりする。

文章には筆者の思考が現れるが、それと同時に読む側も、人によってその捉え方も違うし、その捉え方には読む人の経験が現れるのである。だから文章とは筆者の手を離れて独りで歩いていくものなのかもしれないと思った。私自身だって、夏目漱石の「こころ」の捉え方が、中高時代と30代は大きく異なっている。だから受け手の心次第で文章の印象というものは変わってくるもので、その個々のコメントの内容を気にする必要もないのではないかと思うに至った。コメントを書いてもらえるということは、私の書く文章に何かインスピレーションを得てくれたということで、それだけで十分有難いことなのかも知れない。まあ、私が女だから、ものがいいやすいってのもあるんでしょうけどね。まあ、なめられている部分があるかもしれませんが。

|

« 中国人スタッフにどう接するか | トップページ | 北朝鮮 »